沖縄の夏空の入道雲の力強さが大好きです。風の向きや風の強さ、天候によってもその形が異なります。ダイナミックな夏の自然の芸術と呼べませんか?

 もう七月、保育園の軒下には笹の葉が風に揺れています。6月の慰霊の日を終わったばかりの沖縄。大震災のの瓦礫の山や行方不明になったまま戻らない家族を思う沈痛な叫び声が、戦争で家族を失って逃げまどい暗く長い孤児時代を過ごした方々が語った、戦争体験談とが重なった6月でした。

 沖縄にとっては地獄の苦しみを味わった1945年の4月から6月23日までの3カ月間。沖縄の終戦の6月23日は沖縄の復興への始まりとも言えるのでしょうか・・・。

 わたしの里の遠い親戚の70代の女性の実話です。

「妹は病気で死んだよ」と親に言われ続けていました。しかし、事実は、『泣き声がうるさい』と兵隊さんにおどされて、生まれたばかりの妹を父親が手にかけたのだそうです。父親が亡くなって、初めてその事を母親から聞かされました。その時にはもうすでに60年という歳月が流れていました。父親は語れず死んでいきました。どれだけ苦しかった事でしょう。父を許してほしいと亡くなった妹に手を合わせたそうです。そしてやっと、今年になって妹も戦争の犠牲者だと、平和の礎に名前を刻印してもらいました。

   沖縄戦では20万人の人が亡くなったといわれています。66年たった今でも、亡くなった20万人の家族の中では語られていない事実があるのでしょう。あまりにも酷すぎて語れない事があるのでしょうね。普天間の飛行場の問題、いつまで沖縄は戦争の犠牲になるのでしょう・・。   かた苦しい事を書きましたがお許しください。

 先日、モノレールで茨城から避難してきたと言う母子に出会いました。1歳9カ月のとても活発な男の子を乳母車に乗せたママでした。「子育てを楽しいと思った事が無いのです」と顔を曇らせます。二人きりで避難してきた。ウイークリマンション住まい。24時間二人きり。物は投げるは物を散らかすは、夜も寝てくれない。などなど~とても短い間でしたが、母親の辛い気持ちが伝わりました。こんな時に名刺を持っていればと悔やみました。支援センターには1~2カ所掛け持ちで利用していると言う事でしたので少し安心しました。「支援センターなんくる家」電話帳で調べてきて下さい。と大急ぎでままに伝えましたが手・・。気がかりです。なんくる家にも土曜日に、自主避難をした親子が訪ねて見えたと言う事でした。

 震災、原発事故は、多くの人々の生活を奪っている事を実感します。母子だけの避難は不安ですし不自由です。心細い子育てが続いていることを実感した事例でした。そんな方を見かけましたら、どなたにでも声をかけて、近くの支援センターや保育園を紹介して下さい。 と、同時に暑い夏になります。みなさまご自愛ください。   (石川キヨ子)

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